豊中市の歴史

豊中市の歴史は非常に古く、旧石器時代に人が住み始めたと考えられています。桜塚の原田神社旧境内から銅鐸が発見されたことから、弥生時代には農耕文化と共に数多くの集落と共同体ができていたことが伺えます。待兼山古墳や中期桜塚古墳群、須恵器の窯跡があっとされる島熊山窯跡なども発掘されており、豊中市域がよく開発されていたことが分かっています。

大化の改新で豊中市域は摂津国豊島郡に含まれました。施行された条里制の跡は現在に至るまで随所に残っています。承久の乱の発火点として知られている椋橋荘は豊中市にあります。戦国時代には椋橋城を舞台に東西両軍の激しい戦いが繰り広げられたことが記録されています。江戸時代には一万石の大名青木氏が豊中市域を治めていましたが、徳川幕府は譜代大名や旗本の所領を入り組ませることによって反乱などを起こさせないようにしました。

明治22年4月に摂津国豊島郡の5つの村(新免村、南轟木村、山ノ上村、桜塚村、岡町村)が合併され、「豊中村」と名付けられました。昭和11年に豊中町、麻田村、桜井谷村、熊野田村が合併し「豊中市」になりました。千里丘陵のニュータウン建設や、公共交通機関が充実していること、大阪市に隣接していることなどで、豊中市は急速に発展しました。平成24年には中核市に移行し、現在は人口約40万人で大阪府第4の都市にまで成長しています。